本の覚書

本と語学のはなし

モンテーニュとカント


 昨日書写したモンテーニュの文章を何十遍と読み返している。その度ごとに惚れ惚れする。当面読み続けることに決まりだ。
 意味の取りにくい文章も出てくるだろうし、主としてラテン語の引用が随所にちりばめられているので、容易に読み進められるものではない。
 しかし、アパートの自室を逃れシャノワールの隅で原訳に読み耽った時から、モンテーニュは私にとって因縁の書き手なのだろう。


 哲学の原典では、カントに未練を感じている。理路を辿ればある程度は理解可能な哲学者であるから、というだけではないだろう。
 カントは本来もっと達意の文章を書けるはずなのに、数学的・幾何学的形式の排除によって哲学の権威が低下することを恐れ、わざともったいぶった文体を開発したのだ。そうハイネは指摘する(と記憶する)。*1だとすれば、レヴィナス同様、カントをも投げ出すべきなのかもしれない。
 しかし、恐らくは誤った読み方だったにしろ、高校時代に『純粋理性批判』の感性論に恍惚となった記憶は、今も失われないのだ。


 そんなわけで、数日前に書いたばかりのことを慌てて訂正する。
 フランス語は「Reader’s Digest」、カミュ『異邦人』、モンテーニュ『エセー』。
 ドイツ語はカフカ『変身』、カント『実践理性批判』。
 ギリシア語はプラトン『国家』、ラテン語ウェルギリウスアエネーイス』。
 いつものように欲張りすぎだろうか。これでは、また数日後に慌てて訂正しなくてはいけないかもしれない。


 それから、昨日指摘した「seroit meilleur de dire à Solon」の意味の取り方だが、関根秀雄は「ソロンはこう言った方がよかったのではないか」として、原と同じくソロンを意味上の主語としている。スクリーチは「It would be better to tell Solon...」、フレームは「It would be better to say to Solon...」とし、ともにソロンを間接目的語として扱っている。要は「à」の解釈の問題なのだが、「à」で意味上の主語を導く用法はかなり限定されているのではないだろうか。

*1:『ドイツ古典哲学の本質』参照。

広告を非表示にする