●道元『正法眼蔵(二)』(水野弥穂子校注,岩波文庫)
75巻本の「古鏡」から「諸法実相」まで。
最近参照しているのは、春日佑芳の『正法眼蔵を読む』(ペリカン社)のみである。ほとんど修証一等からのみ読もうという、単純といえば単純に徹した解釈。
一般に、臨済宗では悟りをとることが目標とされる。悟り了れば未だ悟らざるに同じであって、つまり柳は緑、花は紅以外にありようもなく、悟りは決して神秘体験に堕して終わるべきものではないのだが、先ずはある種の心理的体験がどうしても必要だとするのである。
一方、曹洞宗は只管打坐と言う。ただ坐る。なぜなら、修行こそが悟り(証)なのだから。春日によれば、修のところに見る世界が証であり(断じて特殊な心理的状態や体験のことではない)、証はまた修へと脱落転換されねばならぬものだから。
道元在宋中、師の如浄は普説に言った(「諸法実相」)。
天童今夜有牛児 天童今夜牛児(にゅうじ)あり
黄面瞿曇拈実相 黄面の瞿曇(くどん)*1実相を拈ず
要買那堪無定価 買わんと要するに、那(なん)ぞ無定価(むちんか)なるに堪えん*2
一声杜宇孤雲上 一声の杜宇、孤雲の上
春日の解釈。
天童山において私たちは、今夜も、牛児となって修行を続けている、
このとき、金色に輝く釈迦仏は、私たちの眼前に実相の世界を見せるのだ。
だが、これを買い入れて自分のものにしようとしても、値段のつけようがないので、買うすべがない、
思いあぐねていると、ほととぎすの鋭い叫び声が、孤雲の彼方からきこえてくる
如浄は続けて入室話に言う。
杜鵑啼、山竹裂 杜鵑(とけん)啼(な)き、山竹裂く
春日の解釈。
杜鵑(ほととぎす)が鋭く叫び、証の現成を告げている。だが、この杜鵑の一声は、それとまさに同時に山竹(証の世界)を引き裂き、それを修するわが身に脱落させる!
- 作者:道元
- 発売日: 1990/12/17
- メディア: 文庫