本の覚書

本と語学のはなし

回帰

 『アンナ・カレーニナ』は相変わらずなかなか読み進めることができない。
 時々休憩したくなるが、現代日本文学からはいったん離れることにした。代わりに『芥川龍之介全集』で短編を幾つか読む。鴎外と賢治に加えて、ちくま文庫で読みかけの全集はこれで3種類。その上、ずいぶん前に再読を始めたまま放置しておいたモンテーニュの『エセー』まで引っ張り出した。
 小田実に触発されて、止めたつもりでいたギリシア語とラテン語も再開する。私の場合は文学ではなくてプラトン『国家』とスピノザ『エチカ』。プラトンはギリシア語の標準であると言ってもいいだろうが、スピノザは古典期のラテン語と比べたらほとんど近代語である。デカルトやスコラ哲学のラテン語もこんな感じなのだろうかとは思うけど、読んだことはない。
 結局は戻るべきところへ戻って行く。その繰り返しだ。


 私が好むものは何かと言えば、外国語と日本語と哲学と仏教と時々キリスト教
 外国語はいろいろ学んでみたものの、残ったのは英語のほか、高校時代に学び始めたドイツ語、フランス語、ラテン語、ギリシア語。今はとりわけフランス語を好んでいる。何がいいのか。単に、数年前初めて行った海外旅行の目的地がパリであって、いたく感動したからである。仮にもう一方の候補であったインドに行っていたら、全く別の人生が開けていたかもしれない。
 日本語ということでは、個人全集を持っている作家たちさえ読んでいれば、私は幸せなのである。現代日本文学に留まりえないのも、日本語の力が不足しているせいだと思う。時折文章術とか日本語文法の本を集中して読むこともある。以前韓国人にメールでかなり詳細な日本語文法を教えたことがある。もちろん日本語で。貴重な体験である。
 哲学はカントと現象学周辺。原典で読んでいるのは、カント『実践理性批判』とレヴィナス『全体性と無限』。哲学を専攻するつもりで大学に入りながら、ドイツ文学に逃げてしまったのは、おそらく今までの人生の中で最大の失敗だろう。しかし、人生最大の失敗なんてものはこの程度のものなのだ。いくらでもやり直しがきくのである。もちろん、もう哲学教授になるなんてことはできないだろうが、それが哲学に何の関わりがあろうか。
 仏教は形を変えながらも昔から私の関心の的だ。高校時代に『徒然草』を愛読し、学生時代に臨済禅に出会い(実践的にではない)、今はもっぱら道元を読んでいる。寺や仏像も好きだ。仏教系大学への入学願望および出家願望に長らく取り憑かれていたが、この病がぶり返すことはもうないだろうと思う。
 とはいえ、実はカトリックの洗礼を学生時代に受けている。破門されるような大それたことはしていないし、退会届のようなものがあるわけでもないので、もはや教会に通いもしないし、祈りもしないし、そもそも人格神を信じているわけでもないけど、未だカトリックに籍はある。私の不信仰をお許しくださいと言えば、いつでも戻ることはできるだろう。時々は自分が今もカトリックであると思い込んでいる。カトリックの悪口を言うときは、身内のつもりであることが多い。私が教会を離れたきっかけとして、私にとっても教会にとっても恥ずべきエピソードがあるのだが、それについては今は書かない(以前書いたことはある)。思い立って聖書を読むことはあるが、長くは続かない。だが、今まで一番多く読んだ本といえば、確実に新約聖書である。学生時代はバルバロ訳を愛読した。