本の覚書

本と語学のはなし

小田実訳『イーリアス』

 図書館で文芸誌4誌の7月号を借りる。佐藤友哉三島由紀夫賞作品、島本理生のインタビュー、大江健三郎長嶋有の対談など、気にはなるけど読まないだろう。私が本格的に足を踏み入れるべき領域ではない。次回からはもう借りることもないだろう。
 1つ驚いた。よく知らない人だが、小田実という作家が『イーリアス』を訳している*1。初めは重訳かと思った。2行読んで原文を参照していることが分った。末尾を見ると、オックスフォードのテキストを底本にしていることが分った。しかも、余命幾許もないという。死を目前にして、なぜ『イーリアス』なのか。小田実という作家を知らないので、憶測すらできない。
 出だしだけでも吟味しておこう。


 ロエーブの原文、小田訳(詩)、松平訳(散文)の順。原文には、行頭に番号を付けておく。英雄叙事詩はヘクサメトロスといって、長短短もしくは長長の音節を1行に6回繰り返す(最後だけは長短か長長)6脚韻である。


【原文】
① Mênin aeide, theâ, Pêlêiadeô Achilêos
② oulomenên, hê mŷri’ Achaiois alge’ ethêke,
③ pollâs d’ iphthîmous psykâs Aidi proiapsen
④ hêrôôn, autous de heôria teuke kynessin
⑤ oiônoisi te pâsi*2, Dios d’ eteleieto boulê,
⑥ ex hou dê ta prôta diastêtên erisante
⑦ Atreidês te anax andrôn kai dîos Achilleus*3.


【小田訳】
怒りを歌ってくれ、女神よ、ペーレウスの子アキレウス
破滅の怒りを。それはアカイア人に数知れぬ苦しみをもたらし、
雄々しい勇者の魂をあたま冥王のもとに送り、
残されたむくろはただ犬ども、あるいは、
ありとあらゆる鳥もどの餌食になった。
このすべてが戦士の長たるアトレウスの子と神のごときアキレウス
はじめにまず争い、仲たがいして以来のことだ。


【松平訳】
怒りを歌え、女神よ。ペレウスの子アキレウスの―――アカイア勢に数知れぬ苦難をもたらし、あまた勇士らの猛き魂を冥府の王(アイデス)に投げ与え、その亡骸は群がる野犬野鳥の啖うにまかせたかの呪うべき怒りを。かくてゼウスの神慮は遂げられていったが、はじめアトレウスの子、民を統べる王アガメムノンと勇将アキレウスとが、仲違いして袂を分つ時より語り起こして、歌い給えよ。


 ギリシア語の語順は比較的自由である。自由であるからといって、野放図なのではない。1行目の最初に直接目的格の「怒りを」が位置するのは、もちろん強調のためだ。これこそが『イーリアス』全編の主題なのだ。
 2行目の最初にある形容詞は、「怒りを」を修飾する。意味なく被修飾語と離れているわけではない。その距離と行頭という位置によって、やはり強調されているのだ、この「呪うべき」怒りは。その後に続く関係代名詞の「hê」は、それがいかに呪うべきであるかの説明となっている。
 一見して分るように、松平訳では、冒頭の「怒り」こそ強調しているが、その後は関係節を前に繰り出している。小田訳では、「oulomenên」の位置による強調もそのまま訳出しようとしている。関係節の中では主語の変更も厭わない。
 と、この辺りまでは小田訳もよかったのだが、5行目「Dios d’ eteleieto boulê」が訳されていない。松平訳の「かくてゼウスの神慮は遂げられていった」という部分である。松平もオックスフォードのテキストを用いているのだから、そこで採用されていない読みだという可能性はない。
 もう1ついけないのが、「ex hou」の解釈だ。たとえば『Homeric Greek』を見ると、「reffering back to aeide from the time when, literally, from what [time]」という注釈が付いている。つまり、1行目の「歌え」に遡って、アガメムノンアキレウスの不和から歌えということなのだ。それが素直な解釈である。小田訳では辻褄を合わせようとしてか、「このすべてが」という原文からはとうてい導き出せない訳が案出される。そのメカニズムを詳らかにしないので確言はできないが、おそらく誤訳である。
 面白い対照をなしているのが、「神のごときアキレウス」と「勇将アキレウス」。どちらが誤訳ということはない。『A Homeric Dictionary』で「dîos」を引くと、「divine」であるとしながら、こんな説明をつけている、「an epithet applied with great freedom and with consequent weakning of force」。「神のごとき」ではまるでプラントンのようではないか、というのが松平なのであろう。


 いろいろ問題のありそうな小田訳ではあるけれど、死の床にあって『イーリアス』を訳そうというのは凄いことだ。たとえ少しくらい間違っていても、小田の『イーリアス』にはあまり関係のないことだとも思う。

*1:「すばる」7月号

*2:Zenodotusは「daita」とする。

*3:1行目の「Achilêos」と7行目の「Achilleus」では「l」の数が違うではないかという苦情は受け付けない。前者は直前の「長」い音節に続いて「短短長短」、後者は直前の「長短」に続いて「短長長」となる。つまり、英雄叙事詩の法則に従った正書法なのである。