本の覚書

本と語学のはなし

独立不定詞の用法【ヘブライ語】

Biblia Hebraica Stuttgartensia

Biblia Hebraica Stuttgartensia

  • 作者:Elliger, K.
  • 発売日: 1990/06/01
  • メディア: ペーパーバック
 タイムの通読を始めてしまったせいで、なかなか語学の復活が果たせずにいる。大して書くべきことがなくても、外国語に触れた記録を残して少しモチベーションを高めることにしたい。


 ということで、今日はヘブライ語。創世記15章13節から。

וַיּאֹמֶר לְאַבְרָם יָדֹעַ תֵּדַע כִּי-גֵר יִהְיֶה זַרְעֲךָ בְּאֶרֶץ לאֹ לָהֶם
וַעֲבָדוּם וְעִנּוּ אֹתָם אַרְבַּע מֵאוֹת שָׁנָה

ヤハウェはアブラムに言った、「しかと知るがよい。あなたの子孫は異郷の地で寄留者となり、四百年間、〔奴隷として〕人々に仕え、人びとは彼らを抑圧しよう。」

 岩波訳。
 注釈は二つ付いていて、「ヤハウェ」は原文では「彼」であり(もっと正確に言うと、原文に人称代名詞はなく、それは動詞の形態から知りうるのである)、「四百年間」は出エジプト記12章40節では「四百三十年」である。


 さて、岩波訳で「しかと知るがよい」とか、新共同訳で「よく覚えておくがよい」とか、口語訳で「あなたはよく心にとめておきなさい」とか言われているところ(フランシスコ会訳では「次のことを確認せよ」)、原文では動詞が二つ重ねられている。
 前のは独立不定詞、後のは未完了形の二人称単数男性形(ヘブライ語の動詞には完了形と未完了形とがあるけれども、それらの名称は必ずしも時制を表しているわけではない)。これは確実性、強制、完全性を強調する用法である。日本語ではふつう「確かに、本当に、まことに」と訳される。


 ちなみに、不定詞と定動詞の語順が逆になると、まったく別の用法になる。この場合には、継続、反復を表すのである。

神を愛する者は神に知られている【ギリシャ語】

 時間があるので、ギリシャ文字も久しぶりに入力してみたい。ヘブライ語もそうだが、上や下にくっついてる記号を入れるのが面倒くさい。


 コリントの信徒への手紙一8章1節から3節の原文と田川建三訳。

Περὶ δὲ τῶν εἰδωλοθύτων, οἴδαμεν ὅτι πάντες γνῶσιν ἔχομεν. ἡ γνῶσις φυσιοῖ, ἡ δὲ ἀγάπη οἰκοδομεῖ· εἴ τις δοκεῖ ἐγνωκέναι τι, οὔπω ἔγνω καθὼς δεῖ γνῶναι· εἰ δέ τις ἀγαπᾷ τὸν θεόν, οὗτος ἔγνωσται ὑπ’ αὐτοῦ.

偶像に供えられた肉については、我々誰もが知識を持っていると思う。だが知識はふくれ上がらせる。愛が建てるのである。もしも誰かが何かを知っていると思っているなら、その人はまだ知るべき仕方で知ってはいない、ということだ。もしも誰かが神を愛するなら、その者は神によって知られているのである。


 新共同訳ではこうなっている。

偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。

 「我々は皆、知識を持っている」というところ、鍵括弧がついてる。岩波訳やフランシスコ会訳でも同様だが、これはコリントの人たちの主張であって、パウロの意見ではないという解釈である。
 しかし、田川ははっきりとした引用の形跡も証拠もない以上、そのような解釈を訳文に持ち込むべきではないと考える。むしろ、4節に明瞭にパウロの考えが書かれているではないかと(岩波訳とフランシスコ会訳はそれもコリントの人たちの主張とする)。


 「知らねばならぬことをまだ知らないのです」は素人が見ても誤訳のように思われるのだが(文語訳、口語訳、新改訳もほぼ同様)、果たして田川も誤訳と切り捨てている。
 量の問題ではなく、その知識がしかるべき仕方で認識されていないことを、ここでは言っているのである。おそらくそれは愛なのだろうか。


 ところで、偶像に供えられた肉とはどういうことかというと、様々な宗教の神殿で犠牲に供えられた牛や羊の肉が、下請け業者に卸され、一般に流通していたのである。だから、市場で肉を買っても、それは偶像崇拝を禁じる一神教徒には不浄の肉である可能性があった。
 これをどうしたらいいのかということは、当時はまだ悩ましい問題であったようなのだ。

十絃の琴【ラテン語】

Confessions, Volume I: Books 1-8 (Loeb Classical Library)

Confessions, Volume I: Books 1-8 (Loeb Classical Library)

  • 作者:Augustine
  • 発売日: 1912/01/15
  • メディア: ハードカバー
 せっかくなのでラテン語も。近代語はまたの機会に。


 アウグスティヌス『告白』3巻8章より。原文と服部英次郎訳(岩波文庫)。

haec sunt capita iniquitatis, quae pullutant principandi et spectandi et sentiendi libidine, aut una aut duabus earum, aut simul omnibus, et vivitur male adversus tria et septem, psalterium decem chordarum, decalogum tuum, deus altissime et dulcissime.

これらは支配の欲、目の欲、官能の欲から生まれ出るものであり、あるときはそのうちの一つから、あるときは二つから、またあるときはそのすべてから生ずる不義である。それはもっとも高く、もっとも甘美な神よ、三絃と七絃からなる「十絃の琴」に、すなわちあなたの十戒にそむいておくる邪悪な生活である。

 「十弦の琴」という表現は、詩編33 :2、92 :4、144 :9などに見られるが、それが三弦と七弦に分けられているのは、十弦の琴を十戒にたとえ、十戒を神に関する最初の三戒と人間に関する後の七戒に分解しているのである。


 ところで、十戒の数え方はカトリックプロテスタントでは異なる。
 カトリックでは、以下のように区切る。

 1.わたしのほかに神があってはならない
 2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない
 3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ
 4.あなたの父母を敬え
 5.殺してはならない
 6.姦淫してはならない
 7.盗んではならない
 8.隣人に関して偽証してはならない
 9.隣人の妻を欲してはならない
 10.他人の財産を欲してはならない

 プロテスタントでは、二番目に偶像製作の禁止が来て(カトリックでは一番目に含む、もしくは気にしない)、以下番号が繰り下がり、カトリックの九番と十番をまとめて十番目としている。
 どういう事情でそうなったかは知らないが、その性格の違いは両者の教会を比較すれば一目瞭然だろう。