本の覚書

本と語学のはなし

プロテスタント神学/ロジェ・メール

プロテスタント神学 (文庫クセジュ 426)

プロテスタント神学 (文庫クセジュ 426)

 学習参考書や勉強法の本などは皆途中でやめてしまった。その代わりにラテン語とドイツ語を再開したので、結局全てのことをちょっとずつ進めるだけで、何事も捗らない。この二つの言語は、聖書原典講読の補助として用いるに留めておくのが一番いいのかも知れない。
 そんな訳で、今月の読了はこれ一冊になりそうだ。


 神学は信仰を前提とした学問である。私はそのコアな部分に立ち入ることは出来ない。文献学や歴史、思想史、文化史などの、キリスト教と客観的な学問の交わる周縁部をうろうろするばかりであろう。
 カトリックプロテスタントかということは、教会に行かない以上もうどうでもいいのだけれど、一応その違いは弁えておきたい。

 したがって、われわれは、この分裂の概念によって、ときにはカトリックの思想を特徴づけると思われる接続を拒むことによって、プロテスタント思想を好んで特徴づけてみよう。すなわち、キリストと童貞マリアではなくキリストのみであり、恩恵と自由ではなく自由の創造的恩恵のみであり、信仰と業ではなく業が生まれる信仰のみであり、聖書と伝統ではなく神の事業を表現する唯一の証言としての聖書のみであり、一種の世俗的接続としての教会と神の国ではなく教会の唯一の対象は神の国のみであり、信仰と理性ではなく知性を新しくすることのできるのは信仰のみである。(p.132)

肉によって知ることはしない【ギリシア語】

Novum Testamentum Graece: Nestle Aland 28th Revised Ed. of the Greek New Testament, Standard Edition

Novum Testamentum Graece: Nestle Aland 28th Revised Ed. of the Greek New Testament, Standard Edition

新約聖書 訳と註〈3〉パウロ書簡(その1)

新約聖書 訳と註〈3〉パウロ書簡(その1)

 コリントの人々への第二の手紙5章16節。

Ὥστε ἡμεῖς ἀπὸ τοῦ νῦν οὐδένα οἴδαμεν κατὰ σάρκα· εἰ καὶ ἐγνώκαμεν κατὰ σάρκα Χριστόν, ἀλλὰ νῦν οὐκέτι γινώσκομεν.

だから我々は、今から後は、誰をも肉によって知ることはしない。もしも(以前は)キリストを肉によって知ったとしても、今はもはやそのように知ることはしない。

 ここは田川建三の注釈をまるごと引用しておく。田川のパウロ嫌いが露骨に出ているので、正統派のクリスチャンは読まない方がよいだろう。

パウロがかつて生きていたイエスを知ることを拒絶している、というので、あまりに有名な箇所。パウロキリスト教の本質を露骨に暴露している。かつて私は「肉によって」、つまり此の世の現実の中に生きていたイエスのことを多少は知ることもしたけれども(イエスに関する伝承を話として聞いたということ)、もはやそういうイエスのことなどどうでもよろしい(福音書に書かれることになるようなイエスの話なぞ)。自分は、自分に直接現れた復活者キリストのことだけを考える、という宣言。これでは、福音書記者マルコがパウロと喧嘩別れしたのも無理はない(使徒行伝15:37-39)。彼がパウロと別れた後しばらくたって福音書を書こうとした気持ちはよくわかる。*1もちろんパウロがここでわざわざここまで露骨に居直ってみせたのは、あなたは本当にイエスのことを(ないしイエスの伝承を)知っているのか、その証拠を見せてくれ、と突きつけられて(13:3)、逆に、誰が「肉によるイエス」のことなんぞ知ってやるものか、と居直ったものであろう。いわゆる尻をまくったというか。


新約聖書〈4〉パウロ書簡

新約聖書〈4〉パウロ書簡

 一方、岩波訳(青野太潮)の注釈。

「肉にしたがって知る」とは、「自己を推薦し、顔において誇るような仕方で知る」の意であろう。ここから「肉によるキリスト」、すなわち「地上のイエス」へのパウロの無関心を読み取る解釈もあるが、「肉にしたがって」は副詞として「知る」仕方にかかっているので、妥当ではない。

 私には全く意味不明の説明である。

*1:田川は通説に反して、マルコ福音書の著者をマルコだと考えている。少なくとも、その可能性もあるではないかと言う。

さあ、父にぶどう酒を飲ませ【ヘブライ語】

Biblia Hebraica Stuttgartensia

Biblia Hebraica Stuttgartensia

 創世記19章31-32節。

וַתֹּ֧אמֶר הַבְּכִירָ֛ה אֶל־הַצְּעִירָ֖ה אָבִ֣ינוּ זָקֵ֑ן וְאִ֨ישׁ אֵ֤ין בָּאָ֨רֶץ֙ לָבֹ֣וא עָלֵ֔ינוּ כְּדֶ֖רֶךְ כָּל־הָאָֽרֶץ׃ לְכָ֨ה נַשְׁקֶ֧ה אֶת־אָבִ֛ינוּ יַ֖יִן וְנִשְׁכְּבָ֣ה עִמֹּ֑ו וּנְחַיֶּ֥ה מֵאָבִ֖ינוּ זָֽרַע׃

 新共同訳。

姉は妹に言った。「父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、わたしたちのところへ来てくれる男の人はいません。さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう。」

 聖書は道徳の本ではない。
 マタイ福音書の冒頭にイエス系図がある。その中に、何人かの女性の名前が挙げられている。舅のユダによって子を得たタマル、カナンの娼婦ラハブ、モアブ人のルツ、ウリヤの妻バト・シェバ(彼女がダビデによって身ごもったとき、ダビデはウリヤを最も危険な戦地に送り込み戦死させた)、そしてイエスの母マリアである。
 創世記のこの箇所に描かれているのは、ソドム滅亡後、洞穴に住んだロト(アブラハムの甥)とその二人の娘の話である。子孫を残すためのやむを得ぬ手段とは言え、それは明瞭な近親相姦であった。姉はその子をモアブと名付け、妹はその子をベン・アミと名付けた。前者はモアブ人の祖であり、後者はアンモン人の祖であると説明されている。
 モアブ人とアンモン人はイスラエル人の親戚であり、同時に仇敵でもある。しかし、その子孫の中の一人の女性ルツの血が、やがてダビデへと繋がっていき、イエスとも関係づけられるのである。
 道徳の本ではない。だが、罪と汚れと異邦とを呑み込む聖性のようなものが、聖書には語られているのかも知れない。